宮城県石巻市緊急支援ボランティアに参加して

4月上旬、当校講師が宮城県石巻市の緊急支援ボランティアに参加致しました。以下はその体験記です。

宮城県石巻市緊急支援ボランティアに参加して ~東北地方太平洋沖地震による被災現場~

「私は高台に避難したから助かりましたが、流されていく人たちが家の屋根から『助けて』と叫んでいて、でも、こちらはただ見るしかできなくて。本当に地獄絵図でした。」 今回、NGOピースボートのボランティアメンバーとして、4/1(金)~9(土)まで、石巻市でボランティア活動を行った。その時の、現地の方からの話である。 石巻専修大学に到着後、さっそく「清掃」・「仕分け」・「配布」・「炊出し」の4作業にとりかかる。約100名のメンバーを16チームにわけ、私のチームは資材管理用のテント設営を3日間行った。毎晩、「今日から市内でガソリンが供給され始め、被災者の行動範囲が広がった」、「配給が『食糧』から『食事』の段階に移りつつある。それに見合った炊出しが必要」など細かな報告が各チームから行われ、翌日の作業を決定していく。 4日目以降は、主に市内の清掃業務(泥かき作業)を行った。海側へ近づくにつれて倒壊家屋が、ゴミが、ヘドロが、どうにもならない瓦礫が増えていく。腐った泥の匂い。船が道路に横たわり、家屋をなぎ倒している。信号は消えており、電気が通っていないことがわかる。 ある店舗の業務用冷蔵庫の撤去を行ったときは、中の腐敗物を手で掻き出し、バールと金槌で解体しながら行った。また、ある小料理屋では、10センチ以上堆積したヘドロにガラスや家具が散乱し、文字通り足の踏み場のない危険な場所で、懐中電灯を照らしながら清掃作業を行った。メンバーの一人はガラスで手を切り、2針縫う怪我を負った。破傷風の危険性があるので、日赤へ連れ帰ったのだが、衛生状態はとても悪い。そんな中、印鑑や通帳、店の権利書に現金、アルバムなどを見つけたときの店主の喜ばれた顔が忘れられない。暗闇にパッと明かりが灯るかのような笑顔だった。 しかし「多くの家屋は解体し、更地にするしかないだろう」と現地の方はいう。そして石巻市の焼却炉能力では、ゴミ焼却に26年かかるそうだ。復興に何年かかるのだろう。ヘドロと瓦礫の山には石灰が巻かれていた。 我々はもっと積極的に被災地に関わるべきだと思う。画面越しではなく、たった4時間、車を走らせればそれを目にすることができる、そんな場所に住んでいるのだから。寡黙な行動が雄弁な言葉を凌駕する。それが必要とされる時が、これから続く。