東京パラリンピックのブラインドサッカーの日本代表の一人として、佐々木・ロベルト・イズミ氏が参加する。私達の学校の2008年の卒業生の一人だ。その年、全聾の陳裕民氏(香港)と全盲の佐々木・ロベルト・イズミ氏が卒業した。ササキ氏の卒業を祝って、同じブラジル人で、かつて当校で勉強していたラモス瑠偉氏もお祝いに駆けつけてくれた。
佐々木氏はその後、日本国籍を取得し、パラリンピック日本代表として参戦する。
素晴らしいことだと思う。2008年の卒業式の日は先生方が「私達の方が教えられた年だった」と涙ながらに語り合う一日となった。
佐々木氏の活躍を学校をあげて応援したい。
私達は彼らからいつも教えられている。
人が生きる意味も、大切さも、教えられた。
そして、満員電車の中、毎日学校に通って来た佐々木氏の努力と夢の実現への真摯な姿は忘れることはできない。
当時の学内新聞から
3月20日、2008年度の卒業式が例年通り、私学会館アルカディア市ヶ谷で行われた。卒業生の総数は254名。
今年は例年の卒業式とは少し違っていた。
そこには、心に残る3名の卒業生がいた。
そして、その3人の姿を見ていただきたいと思い、初めて、凡人社の田中社長と入管協会の佐藤修専務理事に来賓としてお出まし願った。
心に残る3名のうち1名は2年間無遅刻無欠席で新聞配達をした張麟氏(中国)。さすがに朝日新聞の配達でもそのような学生は少なかったようだ雨の日も風の日も無遅刻無欠席で新聞を配達し続けた彼の存在は、「寝坊しました」と言い訳をして遅刻する学生にとっては、恥ずかしさを毎回感じさせるいい薬となっていた。
次に忘れられない学生は陳裕民氏(香港)氏だ。
彼は全聾だ。
香港から日本の専門学校に進学するために留学した。新宿日本語学校に留学した理由は二つあった。
一つは、当校には文部科学大臣指定準備教育があるということ。もう一つは新宿日本語学校の江副式教授法が聾者にも有効であるということを聞いたことだった。彼はそうした情報を携えて香港から留学した。
殆ど日本語ゼロからスタートし、当校での1年の学習を終え、専門学校への進学も決まった。彼も1年間皆勤だった。
同じく文部科学大臣指定準備教育課程に申し込んで来た学生に全盲のササキ・ロベルト・イズミ氏(ブラジル)がいる。交通事故で両目を失明し、リハビリ中に鍼灸師を目指す事を決めた。友人の結婚式のため一日欠席しただけで、1年間本学に休まず通い続けた。
卒業式には、同じブラジル出身のラモス瑠偉氏もお祝いに駆けつけてくれた。ラモス氏は新宿日本語学校の卒業生で、ロベルト氏の大先輩でもある。その頃の想い出も含め、ラモス氏は壇上で卒業生に心温まるエールを送ってくれた。
2年間無遅刻無欠席で新聞配達を貫徹した学生。耳が聞こえなくても当校で勉強し、専門学校に進学した学生。そして、目が見えなくても日本語を学習して筑波大学に進学した学生。三人とも、多くの学友に勇気と感動を与え、学校全体を明るくしてくれた。今年の卒業式は、今までになく感動的なものだった。
卒業生諸君には、この日の感動を忘れずに、社会で活躍して欲しいと願っている。
また、この卒業式には、日本の女子大生ばりの着物や袴姿で参加した学生も何名かいた。これは来日した外国人の学生が、学生なりに日本の学生としての楽しみ方をよく承知しているようで、見ている教職員の方が感心させられることしきりだった。
卒業式というとここに出ている写真(実際の新聞)のように毎回はじける湯本先生を始め、教務からも事務局からもそれぞれに出し物があった。この写真、安永先生が持ち上げているように見えなくもないのですが、…。
さて、教職員の出し物以外に多くの出し物を卒業式前に募集している。今年も、次々申請があった。
香港の学生から、バンド演奏の申請があったり、韓国の学生からはダンスの申し込みがあったり、下手をすると、出し物だらけになってしまいそうだった。
しかし、生バンドの出演というのは初めてのことであり、式場とも打ち合わせをして許可をもらった。最後は、お決まりのKFCの登場で、会場は大盛り上がり。来賓の凡人社田中社長も、入管協会の佐藤専務理事も「これは、面白い卒業式」と大絶賛。
お二人とも、「人数が多いけれども、家庭的なところがあって、暖かい卒業式だった」と感想を語られた。